狂う刃に 星一つ 落として閃く 雪梅花 殺め いざ殺めよ 血にて贖え 己が罪 雨に紛れる 汝が牙 折りては砕く 我が爪 殺め いざ殺めよ 想うがゆえに 堕ちゆく修羅よ 剣は迸り 届かぬままに 思いは飛翔り 言葉消えゆく 殺め いざ殺めよ 我が宿命は 羅刹が道よ ・ ・ ・ ・ ・ 岡田以蔵。 土佐藩、足軽の家に生まれ、もとより剣術など習える身分では無かったという。 その彼が自己流の暗殺剣法を編み出し、土佐勤王党・武市半平太の門下となって《人斬り》と怖れられるほどの殺し屋として動乱の渦中に暗躍するようになった事は、既にご存じの方もいると思う。 何もここで岡田以蔵についての講釈をやろうというのではない。ただ、そうして多くに知られている以蔵ではなく、また別の面を持った岡田以蔵を描いてみたいと思うからこその前振りである。 即ち、人斬り以蔵。 風趣を解せず、学問に疎く、酒色に溺れ、それでも一剣を以て幕末を生きようとしては、師・武市半平太に利用され続けた以蔵ではなく、また別の人生を歩んでいたかもしれぬ以蔵のことを。 たとえば足軽の家に生まれていなかったら。あるいは、師・武市半平太に出会っていなかったら。 彼が、己が心を以て生きていたとしたら。 「剣客」ではない。 さりとて「志士」でもない。 いうなれば浪人であった。 元は土佐藩士の家に生まれたものの、この時代を生きるにはあまりにもその際が異質すぎた。 彼には類い希な剣術の才能があった。 上士・郷士の家に生まれていたならば名の知れた道場に通い、剣術を習うことが出来よう。しかし、彼は足軽の家に生まれた。教えを請うことなど出来ようはずが無い。足軽に剣術など不要なもの。それが当時の思想であり、常識だった。 だが、それでも…。 彼には、剣を捨てることなど出来なかった。 道場に通えないまでも、自ら樫の木刀を削り、骨肉が砕けるほど素振りをし、縦横無尽に駆け回っては筋肉という筋肉を稼働させた。 「俺が二天様の時代に生まれておれば」 当時彼の胸にあったのは、その一念のみ、と言っても過言ではない。 二天とは、江戸初期の武人、宮本武蔵のことである。 古人と同じく戦国風雲の名残が色濃い江戸初期に生まれてさえいれば、いかようにもその尋常ならざる体力と気根を発揮できたものを。 そうした彼の自嘲であったやも知れぬ。 彼が剣技を学ぶ事を、無論父の儀十は不快がった。 「剣客になりたい」 それでもいつの頃からか、漠然とそう思い始めていた。 そんな矢先、父が死んだ。 扶持は四人扶持、粟を食い、麦を食い、白米などは年に数回も口に出来ない、そんな身分であった。 彼は後を継ぐこととなったが、剣技の鍛錬は相変わらず欠かさなかった。 生き物も斬らねばならぬ、というので、好んで猫を斬った。驚いて飛び上がるところを、空中で真二つに斬ることも出来た。鼠も殺した。穴から顔を出す瞬間、木刀で叩き潰した。彼の家は、こうした獣の血で汚れきっていた。 そうした生活だったから、いつしか人が遠ざかり、交誼も絶えて久しくなった。 そんな彼の出奔が知れたのは、神無月も半ばを過ぎた頃だったろうか。 衝動的に家を出たわけではない。剣客としてのこれからには、家名など不要。そう思っての出奔だった。だが… 町中での評判は思いのほか悪かった。足軽ふぜいの剣術気違い。そんな言葉もそこかしこで聞いた。どこへ足を向けても、蔑みの視線が体中に突き刺さっている気がしてならなかった。 例えどんなに猫を殺そうと、自分の剣は我流足ることを免れない。そう思い知らされたのもこの頃だった。 思い知ったところで、今更家になど戻れるわけが無い。だが、町人に身を落とすことなど尚更に出来なかった。何もできぬまま時雨の降りしきる町並みを、傘もささずにただ歩いた。 手に職が付かずば、当然生活に困窮する。宿もなく身を寄せる知人もなく、一食を手に入れることにさえ苦労を要した。 それでも尚、剣技の鍛錬だけは欠かさなかった。 「剣客として名を立てる」 それはいつしか執念となっていた。 岡田以蔵、二十歳の晩秋のことである。 よろめくような足取りで、彼は茶屋を出た。 背後で店の者達がさぞかしほっとした表情を浮かべているだろうと思うと、振り返る気すら起きなかった。 何とか一食分の金銭を工面して昼飯をしたためたものの、次はこううまく行くか分からぬ。そもそも満足に髭も剃らず、髪に櫛もあてぬ乞食のような姿では、中に入れてくれる店すらあるかどうか怪しいのだ。今出てきたぎかりの茶屋だとて、次は客として扱ってくれるかどうか… (…その時は、その時よ) 出奔してから一月。彼の目には、既に凄惨な光があった。心を殺し情を殺し、闇に紛れて生活している者特有の陰惨な暗さがあった。 とはいえ、彼自身闇に手を染めたわけではない。強いて言うのならば、そうした者の一部と同じような生活を送っているだけであろう。出奔するときに持ち出してきた大小の刀が、辛うじて彼が武士の出自であることを証明していた。 相変わらずの酔ったような足取りで、彼は時雨に泥濘んだ道を進む。雨上がりだけに人通りはさして多くはないが、擦れ違う人は必ずと言って良いほど、異様な風体のこの男を避けた。 「ふん、乞食か。」 彼の風体を見て、行き過ぎた浪人者の二人連れが聞こえよがしに呟いていった。足を止めはしたものの、以蔵は応えない。 だが、重ねて言われた言葉に、彼は逆上した。 「…どうせ中は竹光というやつだろうよ。」 腰にある、彼には不似合いな拵えを見ての言葉だったのだろう。その風体を見れば無理もない。だが、以蔵にとっては侮辱以外の何ものでもなかった。 「おい」 低く擦れた声が、その喉から漏れた。 「待てよ、おい…」 その声に、先ほどの二人が待ち構えていたように薄笑いを浮かべて振り返る。 「乞食剣客が何やら言いたいとよ。」 「竹光であると見抜かれて、詫びでも入れる気になったか。」 にやにやと笑いながら刀に手をかけてみせる。彼らにしてみれば、ほんの脅しのつもりだったのかも知れない。しかし、却って逆効果となった。 「ほざくな!!」 一閃、二閃。 光芒の筋が以蔵の腰間から迸り出る。猫を斬るときとまるで同じだった。 叫び声も上げずに二人は昏倒する。おびただしい血潮が、それぞれの肩から胸元にかけて吹き零れてきた。 正に一瞬の間の出来事だった。斬られた当の本人でさえ、何が起きたのか完全には理解できなかったろう。 泥飛沫をはねさせ、二人は地に倒れた。雨上がりの土の独特の匂いに、咽せるような血の匂いが混じる。 「急所は外してやった。」 痛みにもがいている二人を見下ろし、低く彼は呟いた。 よもや死ぬことはないだろう。大した手入れもしていないせいで刀の斬れ味は鈍かった。それがために、却って痛みは増すこととなろうが。 「…そこで痛みに苦しめ。」 未だ経験はなかったが、人を殺すことに躊躇いはない。だが、雨上がりで人通りが少ないとはいえ白昼の道である。現に彼が先程までいた茶屋から、こちらを伺い見ている女がいる。 知られれば厄介なことになる。身を窶しても岡田以蔵、歴とした武士のつもりであった。 血振りをして刀を納め、彼は藪睨みの視線で茶屋を返り見た。慌てて身を隠すかと思われた女は、だが、逆に目礼さえ返してみせる。彼は意外の面持ちとなった。 自分は目の前で人を斬った男である。その男に恐怖や憎悪を向けこそすれ、多少ならず敬意を払うとは。 僅かばかりの興味を覚え、彼はもがいている男たちに戻しかけていた視線を女へと向けた。 都市は二十歳を越えた頃、さもなくば十八、九か。世辞にも美しいとは言えないが、愛嬌のある顔立ちをしていた。彼の視線から逃れようとするでもなく、真っ直ぐにこちらを見返してくる。 (…妙な女だ) しばらく女を凝視していたが、やがて主人に呼ばれたのか女が茶屋の中へ消えたので、彼は踵を返した。知らぬ間に自分を遠巻きにしてしている人垣をかきわけ、その場を去る。斬られた男達はいつの間に逃げ出したものかその場に見当たらなかったが、泥濘み道に点々と血が滲んでいた。 浴びた返り血にも頓着せず、ふらつくような足取りで歩む彼の口元には、微かな冷笑が浮かんでいる。…が、その笑みはすぐにかき消えた。 (…妙な、女だった) 先程自分を見返してきた視線を思い出し、ひとりごちる。 だがしばらくすると、彼の記憶からこの女は消えてしまった。小さな事はいちいち覚えておかない性質なのである。 後日、この「妙な女」と再び顔を合わせることになるのだが、それは未だ彼の知らぬ所であった。 それから数日後。 相変わらず膂力と勢いに任せて刀を振り回すだけの「剣技の鍛錬」を済ませ、彼はねぐらを出た。 数日前よりはまともな格好をしている。それというのも、先日請け負った仕事の礼金を受け取ったばかりだからであろう。 伸びきった月代はそのまま総髪に束ね、泥と返り血に濡れた着物よりは幾分か清潔なものも身につけている。 請け負った仕事は一種の詐欺・強請。藪睨みの視線と、喧嘩殺法としか言えぬような剣技によって鍛えられたその体躯で凄まれれば、大抵の者は黙って従った。そうでない者も、実力で彼にかなうはずはなかった。 そんなわけで彼はこの日、暇を持て余して鬱蒼とした住処から町に出てきたのである。既に日は落ちて久しかったが、つい先程軽く夕餉をしたためてきたこともあって空腹感はなかった。 腰帯にたばさんだ両刀の確かな重みを感じながら、ゆっくりとした足取りで夜道を進む。月明かりも乏しく、灯りさえ持っていなかったが、昼夜を問わず幾度となく往復しているこの道を誤るはずがない。 町中に出ると、料亭や屋台には未だ灯りがついていた。ほの明るい街並みが、妙に懐旧の情を誘う。 彼は料亭の一つに入っていった。 暖簾をくぐると、店内の熱気で外の冷えた空気が嘘のように感じられる。品がいいとは決して言えないが、それだけに却って彼のような無頼者も足を踏み入れやすいのだ。 「酒を…な。それと肴を。」 手近にいた小女に告げ、代金を渡して座敷へ上がり込む。 「攘夷だ」「いや、開国だ」「辻斬りが…」「…蒸気船」 善いに任せた男達の会話が切れ切れに耳に入ってくる。丁度食事時なのか、町人や浪人の姿が多かったが、彼は構わず彼らの間を縫って人の少ない場所まで進んだ。相変わらず彼の外見はむさ苦しいままだったが、さっぱりとした衣服を身に纏っているせいか眉を顰める者も少なかった。 座敷に座り両刀を外して傍らに置く。程なく酒肴が運ばれてきた。 運んできたのは先程の小女だったが、何を思ったのかその場から去ろうとはしない。 こんな料亭ではよくある事なのだが、心付けも渡していないし、何より自分が女にちやほやされるような柄ではないこと位、以蔵は十二分に弁えているつもりだった。 些か不信感を覚え、未だ酒の注がれていない盃を手にしたまま女を見やる。 年は二十を越えた頃、さもなければ十八、九か。世辞にも美しいとは言えないが、愛嬌のある顔立ちをしている。 (?) どこかで見たことがある…そう思ったのも束の間。 「お酌を…」 つと女の手が伸びて、彼の前にある徳利を取り上げた。…かと思うと、彼の手にしていた盃に酒が注がれている。 そうして嫣然と笑う女に、彼はますます不信感を募らせた。 「…おい、女」 盃に口を付けぬまま、不機嫌も顕わに口を開く。 「どういうつもりだ。」 怪訝そうに顔を上げた女と視線が合う。 やはりどこかで…? 奇妙な既視感に苛まされつつも、彼は言葉を重ねた。 「色事の相手なら見当違いだぜ。金はあれで終わりだ。」 不意に、女の口元が綻ぶ。笑ったのだそう気付くのに数瞬かかった。 「何が可笑しい。」 憮然としてそう言う彼に擦り寄り、女は可笑しそうに笑いながら口を開いた。 「旦那が、見た通りのお人だからですよ。」 「何だと?」 盃を置いて鋭い目付きとなった彼を制するように、女は笑うのを止めて上目遣いに彼を見る。 「三日ほど前、茶屋の前で男二人…お斬りになりましたでしょう。あの時に見たままのお人ですので、つい。」 女の言葉に、彼は警戒して刀を引き寄せた。よもやあの二人の仇を取ろうというのではないだろうかと。 そんな彼の様子を見て取り、女はついと身を引いた。 「私を見てらしましたのに、もうお忘れですか。」 「何…」 思わず女の目を見つめ返し…漸く、彼は思い出した。 あの時、茶屋からこちらを凝と伺い見ていた女だ。まさかこんな所で会うことになるとは思ってもなかった。 知らず唖然とする彼に構わず、女は言葉を続ける。 「見事な太刀筋でしたよ、その」 と、彼が咄嗟に引き寄せた両刀を指し、女は言葉を続ける。 「二本。あんな格好してらしたから、斬れるはずないと思ってましたのに。」 そう言って含み笑いを洩らす女を、彼は半ば呆れて見やった。 知れば知るほど奇妙な女だ。見かけよりもずっと老けた口調で話をするし、目の前で人を斬った自分に愉しげに話しかける。それに、興味だけでこんな話を切り出せるものなのだろうか。 …が、後に続いた言葉に、彼は瞠目した。 「ねぇ…人を斬るって、どんな心持ちがするものなんです?」 すぐには答えられなかった。いや…例え時間が十二分にあったとしても、軽々しく答えられるものではなかっただろう。 答えない彼に、女は微笑する。 「ふふ…冗談ですよ、旦那。」 そう言って浮かべた笑みは、その老けた口調とは逆に若々しい、楽しげな笑みだった。 完全に呑まれた形で、彼は茫然とそんな女を見つめることしかできなかった。だが… (面白い。こんな女がいるものか…) 今まで人と会話らしいものをしたことがなかった以蔵が、その女に惹かれたのも確かだった。 …この日、彼は町外れの住処に戻らなかった。 女の名を、ゆりと言った。 親しくなってみれば何のことはない、普通の女だった。 だが、以蔵に偏見も先入観もなく近付いてきた初めての人間であり、女だった。 もともと世話好きな気質らしく、以蔵が町外れに一人暮らしだと知ると、時折彼の住処まで来て話をしていった。一月に一度が週に一度になり、やがて三日と空けず来るようになった。話をするだけでなく、いつからか食事を作って持ってきたり、埃と血と汗とで汚れた家の掃除もするようになった。 以蔵はそんなゆりの態度に驚きつつも、悪い気はしていなかった。是ほど親身になって世話をしてくれたのは、ゆりが初めてだったからだろう。 聞けば、ゆりの両親はゆりが幼い頃に他界しており、十二、三の歳になるまでまり人とは交流がなかったという。それと知り、以蔵はますますゆりに惹かれるようになった。 ほどなくして、二人は共に暮らすようになった。 以蔵は以前のような仕事を請け負わなくなり、かわりに用心棒として生活費を工面するようになった。ゆりの口利きだったが、雇い主は我流とはいえ腕の立つ以蔵を重宝した。お陰で、二人で暮らすには不自由しないほどの給金を得ることが出来た。 幸せだった。 この上もなく、幸せだった。 これまで人のぬくもりを知らず、殺伐とした世間にのみ押し流されてきた以蔵にとって、ゆりとの暮らしはまさに夢のようだった。 毎日昼過ぎに家を出、頼まれた用心棒の仕事をし、たまには場所の無頼を追い払ったりする。家に戻ればゆりがいて、飽くことなく何かと世話を焼いてくれる。 自分が人並みの幸せを手に入れられるとは思っていなかっただけに、以蔵の喜びは大きかった。ささやかではあっけれども、彼らは幸せだった。 …そんな、ある日のこと。 その日は、朝から威とのような雨が降りしきっていた。 「…ま、厭な雨…」 雨戸を開けて呟いたゆりの声が、夢現つにいた以蔵を現実へと連れ出した。 「お目覚めですか?」 聞き慣れた柔らかな声。身を起こした以蔵に笑いかけ、ゆりは土間へ降りた。根深汁の匂いが微かに漂っている。 「…腹が減った。」 「すぐに食事にします。」 間を置かず返ってくる言葉も、いつもと変わらない。 布団を畳み、以蔵は顔を洗おうと外へ出た。 体のまわりにまとわりつくような雨を感じつつ、井戸から水を汲み上げて両手を浸す。ひんやりとした冷感が掌を覆い、以蔵は知らず溜息を吐いた。それから思い切り良く、その水を顔にぶつける。掌で拭った後はすがすがしかったが、降りしきる雨がすぐにまとわりつく。 (成程…厭な雨だ) 内心苦笑しつつ、彼は軽く頭を振って踵を返した。 自分を呼ぶゆりの声がする。おそらく支度が出来たのだろう。 今日は少し早めに出かけよう…そんなことを思いつつ、以蔵は家の中へ戻った。 雇い先の宿に着いても、雨は止まなかった。糸のような雨はますます細かさを増し、ともすれば霧のように雨が漂った。 あてがわれた一室でぼんやりと物思いに耽りながら、以蔵は刀の柄を弄んでいた。 やはりこんな雨の日には客足も途絶えるのか、宿の使用人達の会話が襖越しに聞こえてくる。 聞くとも無しにその会話を聞いていたが、一人が言った「新撰組」と言う言葉にはっとする。 「壬生の狼」という噂を聞くようになって久しい。この町にもいるという話を聞くし、彼自身幾度か見かけたこともある。 …人斬り集団と名高く、その局長・近藤勇と副長・土方歳三は中でも屈指の実力だという話だ。 (奴ら、何を考えているのか…) そんなことを思いつつ、以蔵は小刀についている小柄を取り出そうと鞘に手をかける。…が。 (あ…しまった) そこに納まっているはずの小柄がなかった。 小柄とは、現代で言えばナイフのようなもので、用途は多々。飛び道具として以蔵もしばしば使っているし、無いと何かと不便だろう。 (仕方ない。取りに戻るか…) 思うが早く、以蔵は立ち上がって襖を開けた。 「すまんが、忘れ物をした。取りに戻ってもいいだろうか。」 抑揚のない声だったが、使用人達は以蔵のそんな様子にも慣れてしまっているらしく、快く送り出してくれた。もとより、こんな日に用心棒が必要になることは滅多にないのだ。 すぐ戻ると言い置いて以蔵は宿を出た。 雨は変わらず降っていたが、傘をさす気にはなれなかった。こんな霧のような雨では意味を為さないだろう。 泥濘んで滑りやすい足許を気にしつつ、以蔵は小走りに道を急いだ。人影はまったくと言っていいほど見えない。いや…目の前に一つだけある。傘をさし、何かを抱えるようにして道を進んでくる人影。 以蔵は思わず足を止めた。あれは… 「ゆり」 知らず発した声に人影が足を止める。傘を上げ、以蔵を見る。 「ああ…丁度良かった。」 彼を認めてゆりは微笑む。包みを見せ、三間を隔てて向かい合う以蔵に歩み寄ろうと足を踏み出す。 ――その時だった。 どこからか、もう一つの足音が近付いてきていた。ゆりは怪訝そうに顔を巡らせ、足音のする方に意識を向ける。 足音は走っている。一つ…二つ。それよりも大勢。 (何だ…?) 雨に霞んで視界がはっきりしない。以蔵もまた足音の主を探し、正体を見極めようと目を凝らす。その刹那―― 雨の中に白刃が煌めいた。続けて怒る怒声。鋼を打ち交わす音。足音はすぐ近くでする。…この場は、危険だ。 「ゆり…」 悲鳴が起こった。 何かが倒れる音がする。 雨とは明らかに違う、雫の滴る音もする。 「ゆ…り…?」 目を向けた先は赤かった。 斬り飛ばされた傘の柄の部分が転がっている。ゆりが抱えていた包みも落ちている。ゆりは…ゆりは!? 「……っ!」 体中の血が逆流する。視界が紅くなり、何も見えない。ただ、血塗られた刀を手にゆりの傍らに佇む男だけが見えた。 「うあああぁぁぁぁっっっっっっ!!」 自分が刀を抜いたかどうかさえ分からなかった。 気付けば、鈍い痛みの走り抜ける右腕を垂らして、左手に小刀を構えていた。 目の前の男は答えない。ただ、冷たい視線が突き刺さる。 「ゆりを……っ貴様がゆりを!!」 両目から熱いものが吹き零れてくる。痛みと怒りに狂いそうになる。それでも左手で構えた刀で斬りかかり、その男に跳ね飛ばされた。 膝を付いた傍らにゆりの身体がある。血に付いた手が鮮血に塗れる。ゆりは動かない。もううごかない…! 「ゆり…ゆり」 「副長」 不意に、そんな声が耳に届いた。 ゆりの声ではない。ゆりは声を発しない。 「副長、終わりました。」 声に反応して男は背を向ける。目に入ったものは一文字、誠。 ……新撰組。 「…運が悪かったな。」 霞がかった意識の底で、その言葉のみ浮かんで消える。 新撰組副長、土方歳三。…土方。 足音は去った。あの男はもういない。 ゆりはここにいる。だが、その魂はこの場に無い。 「……ゆり…」 囁いた声が雨に溶ける。 辛うじて動く左手で愛しげにその頬をなぞり、彼はふらふらと立ち上がった。 「ゆり――」 感覚の麻痺した右手に大刀をひっさげたまま、その腕は血に濡れている。 見上げた視線は虚ろだった。表情のない復讐鬼。 雨が血を流してゆく。刀の血も、ゆりの血も。 (新撰組……土方歳三…) ――……殺してやる!!
想いは遙か 遠くへと発ち いつか届かん 風のごとくにも 漣のように消えゆく言葉を 波紋のように広がる言葉を 風に託した花片のように 何処までも信じ続けよう
この血に塗れた掌で お前の記憶を抱き起こそう 人の生命を奪った腕で お前の想いをかき抱こう 俺は罪多き者がゆえに 罪多き者に罰を与えよう
剣は奔り 声は届かず 想いは飛翔し 言葉消えゆく 吹雪の彼方に叫んだその名を 凍てつく氷に刻んだその名を 炎に投じた花片のように すべて過去だと忘れてしまおう